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佐渡芸能の歴史

鬼太鼓解説:山本修巳  
(郷土史家、佐渡市文化財保護審議会会長、「佐渡郷土文化」主宰)

佐渡の鬼太鼓の起源は不明であるが、延亨年間(1744~1748)の相川祭の絵図には、鬼太鼓が描かれています。
金銀山の抗夫が鬼の面をかぶって、太鼓を打ったことは、文政13年(1830)蔵田茂樹の『恵美草』や天保11年(1840)の川路聖謨の日記『島根のすさみ』などにも記されています。
佐渡の鬼太鼓は、舞い方の特徵などからこれまで大きく相川系・国中系・前浜系の3系統に分けられてきましたが、近年はさらに研究が進み潟上系、一足系、豆まき系、前浜系、花笠系5系統に分類するようになってきました。研究者によって諸説ありますが、ここでは3系統の鬼太鼓についてご紹介します。

相川系鬼太鼓


相川系鬼太鼓は太鼓に合わせて舞う豆蒔き(翁)と薙刀を持った鬼と棒を持った鬼が(集落によっては武者)登場します。鬼はほとんど立ったままです。太鼓を打つ者は表打ちも裏打ちも面をつけていません。
主役の豆蒔きは長烏帽子に素襖姿、背には松と鶴の模様、面は黒、左手で升、右手に茄子か柿を持っています。
相川系鬼太鼓(右写真)は相川から沢根、二宮、八幡と真野湾沿岸の集落で見られます。

国中系鬼太鼓


国中系鬼太鼓は、新穂村潟上の関口六助が安政年間(1854~1860)に、京都などで太鼓打ちを習い、すでに享保年間(1716~1736)に、同じ潟上の宝生流太夫・本間宇京清房が振り付けをしていた鬼舞を、現在の鬼太鼓として完成させたといわれています。

洗練された舞と太鼓に人気があって、両津湊・河崎・片野尾・豊岡・新穂村舟下・四日町・金井町新保・宮川などの集落では「六助から習った」と言い伝えられています。新穂舟下では、近代になって森田宗一が自分の創作を加えて、近代人向きの鬼太鼓に変貌させました。鬼舞に、2匹の獅子がからむとさらに勇壮になります。
この鬼太鼓が、一般に佐渡の鬼太鼓として紹介され、観光宣伝に使われたため、「鬼太鼓」というと舟下系の鬼太鼓(右写真)しか、注目されないようになりました。
しかし、宮川などには、単調な太鼓のリズムにあわせて、ゆっくりとした所作をする古風な鬼太鼓も残っています。

前浜系鬼太鼓


前浜系鬼太鼓は、太鼓と笛にあわせて2匹の鬼が向かいあって踊るもので、東北地方の鬼剣舞に似ています。また、鼻切り面をつけた老僧(ろうそ)が、鬼と舞うところもあります。

ここでは大きく相川・国仲・前浜系の3種類に分けましたが、それぞれ特徴に差異があって、すっきりとは分けられない面があります。
たとえば、赤泊地区徳和集落では、鬼が三匹いて薙刀を持って舞います。相川鉱山の坑夫が金を掘る姿態を舞踏化したとも言われています。また、両津地区赤玉集落では、オモテメンの妻が太鼓を打つ夫婦の芸能です。裃、袴姿のウラメンが右肩に担いでいる男の太鼓を打ち、オモテメンが舞います。全体としてテンポはゆっくりしています。

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