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佐渡芸能の歴史

歌舞伎解説:山本修巳  
(郷土史家、佐渡市文化財保護審議会会長、「佐渡郷土文化」主宰)

金銀山の周辺からはじまる


相川の町は江戸時代、金銀山の町として賑わっていましたが、天和元(1681)年、元文2(1737)年には、歌舞伎芝居の興行が禁じられています。佐渡へ来た歌舞伎は、相川だけでなく、在方でも興行していました。歌舞伎芝居は、奉行所から圧迫を受けた時代もありましたが、盛んな時代もあって、佐渡の村々に芝居の役者が生まれる素地を作ったのです。

北前船の寄港地・小木で隆盛した歌舞伎


北前船の寄港地として賑わっていた小木港の金刀平座には、ひと揃いの衣装があって、旅回りの一座が、小木に巡りつけば一息つけるといわれていました。

明治23年ころ、浅田屋を名乗る浅尾森之介という二枚目役者が、事情があって諸国を放浪中、小木に滞留しました。彼は大阪の道頓堀の小屋に出ていた与六という役者の弟で、立役の本間トラをはじめ、多くの門人を育て、小木歌舞伎の隆盛をもたらしました。浅尾森之介の門人たちが公演する時は、衣装は各自持ちで、上方へ注文し、公演のたびに衣装が増えました。ここには、小木港の繁栄があったのです。浅尾森之介は、明治33年、小木で没しました。

小木から赤泊、新穂へひろがる歌舞伎


そのころ、小木港の雰囲気の影響を受けた赤泊地区徳和に市川盛之助がおり、また旅回りの役者で佐渡に根をおろした市川恵美之助もいました。恵美之助の弟子には、真野地区竹田の徳兵衛や新穂地区田野沢の市川絞三郎がいました。

新穂地区田野沢の市川紋三郎は、本名山田紋平、家の名前が紋四郞で紋四郞芝居ともいわれました。長男山田豊を女形として市川小田野を名乗らせ、妻の実家勘左右衛門・両津地区長江の武助・新穂地区馬場の影山春治・新穂地区島の野崎五作・新穂地区田之沢の本間茂左衛門らが座員でした。長江の武助は中村省三郎という東京生まれの役者。影山春治は旅先で役者になり、本間茂左衛門は紋三郎に子役から仕込まれました。

一方、新穂地区田野沢には、岩間又兵衛一座がありました。山下与助・山本弥九郎らが座員です。

片野尾に根付いた歌舞伎


明治30年ころ、歌舞伎は両津地区水津や野浦集落で隆盛でしたが、そのころ真野地区竹田の徳兵衛を、祭りの1ヶ月くらいまえから頼んで習ったのが両津地区片野尾です。

その時の芝居を習った若い衆には、小田忠吉・三国龍吉・金子柳太郎・吉田亀吉・清田九郎・山田寿吉・金子兼・宇治重太郎・宇治繁太郎・藪田亀治郎などがいて、出し物には義経千本桜・仮名手本忠臣蔵・奥州安達原・一谷嫩軍記・伽羅先代萩などがあって、7、8年は続きましたが、日露戦争で中断しました。
大正15年、歌舞伎同好会を結成し、田野沢の市川紋三郎から習い、4月19日の片野尾神社の祭礼に奉納。渡辺弥市・山口広吉、役者に宇治藤二・山口七太郎などがいました。その翌年からは紋三郎に習わなくともやれるようになったそうです。中には宇治シマ・宇治イトなどの女性も出演しました。

戦争で一時、中断しましたが昭和22年4月21日の風島神社の祭礼に復活し、その後、行われなかった年もありましたが、片野尾小学校(現在閉校)の児童に教えたりもしながら底辺の拡大を行い、村の人たちの手で続いています。(現在2年に一度の公演)舞台セット、衣装、かつらなどすべて会員の手作りです。

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