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佐渡芸能の歴史

人形芝居解説:山本修巳  
(郷土史家、佐渡市文化財保護審議会会長、「佐渡郷土文化」主宰)

佐渡の人形芝居は、寛保年間(1741~44)、江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が佐渡へ渡り、真野地区竹田の大膳神社の祭りで神楽人形を舞わせたのがはじまりという説と、新穂地区八王子の須田五郎左衛門が、潟上の能役者本間氏が宝生流を伝えて太夫となったのをうらやみ、京へ上って公卿から浄瑠璃と人形の遣い方を習い、いまも伝えているのが新穂地区の廣栄座の人形であるという説とがあります。どちらにも文献の裏づけはありませんが、語り物の多くが上方系であり、廣栄座の人形に「享保雛」に似ているものもあるところから、享保(1716-36)のころの上方から移入されたとする見方が有力ですが、享保以前に佐渡に人形がなかったとは断定できません。

藤田茂樹の『恵美草』や『天保年間相川十二ヶ月』によると、そのころの人形は説経人形で、幕合狂言による野呂間人形が登場し、祭りの余興に神社や寺堂で行われています。舞台は高さ四尺の腰幕に水引幕をつるすだけものもで、太夫は幕の陰で弾き語りをしました。

江戸時代の佐渡の人形は説経節にあわせて遣われていた仏教の説教が歌謡化して、和讃・平曲・謡曲などの影響を受けた民衆芸能です。

佐渡の説経人形は金平人形とも言われますが、坂田(金時の子で、剛勇)が活躍するような合戦物が好まれました。大江山酒呑童子、太田合戦・浜松合戦・熊野合戦などです。また、哀れな心情を表現する説経物も含まれ、孕序盤や山椒大夫もよく演じられました。現在、新穂瓜生屋の廣栄座の霍間幸雄師所有の台本の主なるものを挙げると次のとおりです。

忠臣蔵 源氏烏帽子折 鈴鹿合戦 鋸山合戦 熊野合戦 大江山酒呑童子 判官鞍馬登 平仮名盛衰記 三庄太夫 藤原純友 国姓爺合戦 孕常磐 曾我会稽山 八幡山

天神記 武知合戦 嫗山姥 田妻 出世景清

説経人形は舞台様式・頭・遣い方・衣装において簡単で古風なものでしたが、娯楽の少なかったころの村人は、祭りの人形芝居を見て、その登場人物の人生の哀歓に、ひとときの楽しみを見出したのです。太夫一人に人形の遣い手3人というのが人形座の組織でした。

野呂間人形は、説経人形・文弥人形の狂言として上演される。野呂間人形については、寛文(1661-73)のころ、江戸の野呂松勘兵衛が愚鈍な人形を遣う名人であったので、野呂松の略「のろま」ともいわれますが、愚鈍を意味する言葉も古くからあったようです。いずれにしても、間狂言として、一人遣いで方言を交えた台詞と滑稽卑俗な物語で観客を笑わせるのが野呂間人形でした。

野呂間人形は、現在、新穂瓜生屋の廣栄座を中心に演じられており、下の長・木之助・仏師・お花の登場人物によって、「生き地蔵」、「木之助座禅」、「お花の里帰り」、「そば畑」、「五輪仏」などが演じられます。

一方、文弥人形が成立したのは、明治時代のはじめで佐和田町地区沢根の伊藤常磐一と小木の人形遣、大崎屋松之助は、上方見物に行って上方の人形芝居を見学し、佐渡の人形芝居を改良しました。

腰幕の内側に組立て式の枠を組み敷居をはめて、四枚の襖を立て、水引幕をつけた二重舞台です。それ以前は腰幕から人形が姿をあらわすだけでしたが、襖をあけて人形が演技をすることによって、立体感のある舞台になりました。

また、それまでは、人形の着物の裾から左手をさしこんで胴串をにぎりながら頭を遣い、右手を右袖から出して所作をしていましたが、大崎屋松之助は、人形の着物の背を割いて左手を入れる遣い方にしました。さらに、頭の下部をえぐってサグリという糸を使って頭が前後座右に動くようにしたので、がくがく人形といわれました。それまでの人形はデッツタ人形といって、頭は左右に動くだけでした。

このような大崎松之助の改良によって、舞台の変化の面白さが加わり、人形の動作や表情が複雑になってきました。語りも文弥節の哀調によって、佐渡の人形芝居は面白さを一新しました。

そして、明治15年には、単に祭りの余興というだけ出なく、独立して5日間公演を続けるための興行願を役所に提出しています。こうして、説経高幕人形は次第に滅び,文弥御殿人形が佐渡の人々の最高の娯楽になりました。その一方で、間狂言の野呂間人形はつかわれなくなりました。

佐渡の人形芝居といえば文弥人形と思われるようになりましたが、最盛期は明治の末ころです。大正も中ごろになると、浪花節が流行し映画があらわれる用になって、次第に衰えてきました。現存する人形座では、野呂間・説経高幕人形は新穂瓜生屋の廣栄座、文弥御殿人形は羽茂大崎の大崎座と大谷の大和座、金井中興の中興座、相川入川の文楽座と矢柄の繁栄座の五座です。

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