世阿弥は佐渡に能を伝えたか
永享6(1434)年5月、世阿弥(観世元清)が、将軍足利義教によって佐渡に流罪になりました。世阿弥は佐渡への道中や配所の様子を書いた謡曲州『金島書』を残していますが、その成立は永享8(1436)年2月です。
世阿弥がなぜ遠島になったのか、何年ほど佐渡にいたかなど正確にはわかっていません。『金島書』には、世阿弥が敬神のため神前で舞ったとありますが、島の人に能を指導したかどうかは明らかではありません。
江戸時代に佐渡の能の基盤は作られた
また、天文22(1553)年に世阿弥の末孫七代の太夫元忠(宗節)が、河原田城主本間氏に招かれ、能を演じたといわれています。しかし、佐渡の能楽の始まりは、慶長9(1604)年、佐渡代官として渡島した大久保長安が、能楽師常太夫・杢太夫、そのほか脇師・謡・笛・太鼓・大鼓・小鼓・狂言師一行をつれてきたことによります。
そして、寛永12(1635)年、佐渡奉行伊丹康勝が相川の春日社の祭礼に能を奉納しました。また、正保2(1645)年も、能楽師常太夫が登場することもあるので、大久保長安とともに来島した人物が襲名した二代目と思われます。いずれにしても、この2人によって佐渡の能の基盤は作られました。
このころ登場し、その後、杢太夫・常太郎に変わって、中心になった人物に、新穂地区潟上の左太夫がいます。彼は大きな百姓で、杢太夫が常夫の弟子として成長したものであろう。延宝3(1675)年、左太夫は、宝生家の弟子となって学びました。左太夫の息子清房も宝生友春の弟子となって宝生家との関係を深くしていきました。こうして、佐渡の宝生流は成長したのです。
観世流については、寛永14、15(1637、1638)年、佐和田地区矢馳の遠藤九左衛門が奈良に行って、観世流の脇師福王茂十郎に学び、佐渡に帰って、能を広めました。正徳3(1713)年、佐渡奉行の新保五左衛門は、遠藤九左衛門を召し出して脇師の名目を与え、御払米を給しています。
こうして、佐渡の能楽は、江戸時代、宝生流の本間家と観世流の遠藤家によって支えられてきたのです。はじめ、元禄15(1702)年に能楽に登場した人物は、ほとんど地役人で、能はそのころの佐渡奉行所役人層の教養でありました。しかし、享保15(1730)年の畑野地区松ヶ崎の松前神社に奉納された能楽では、佐和田地区河原田の商人中山六兵衛、相川地区八百屋町の徳兵衛、山師松木久右衛門、相川地区長坂の木挽半次郎などがいます。能楽が地役人の教養から次第に町や村の有力者層や商人など各階層に広がったのです。国仲の村々の祭礼には神事能が催されました。そして、その神事能に参加するのは、村の重立衆でした。また、宝暦3(1753)年には、佐渡宝生流の一座が、出羽(山形県)で興行しています。新穂地区潟上の本間能太夫を中心に一行19人は、相川5人、新穂3人、潟上6人、長畝2人、椎泊2人で、ほとんどが百姓や町人でした。
天明2(1782)年に、相川金銀山の鳥越間歩(とりごえまぶ)から金銀がたくさん出た時に、大山祗神社へ3日間の祝儀能が奉納されました。拍子方は、地役人やお雇町人で、本間能太夫には銭20貫、脇師の遠藤藤九郎に12寛文が与えられています。佐渡の能楽は奉行所の保護と村々の重立衆に支えられ発達したのです。
安政4(1857)年、相川地区小六町の脇師遠藤清之丞が佐渡奉行所から観世流の能太夫を命じられたことで、宝生流の本間能太夫と対立関係になっていきます。
国仲の最初の神事能は、佐和田地区中原の若一王子神社例祭で、延宝四(1676)年の記録があります。この若一王子神社、真野地区竹田の大膳神社、畑野地区栗之江の加茂神社、新穂地区潟上の牛尾神社が国仲4カ所の御能場といわれ、舞台の正面に御能番組が揚げられていました。佐渡の村々の祭礼に定能といわれた能が、広く奉納されるようになったのは、江戸時代中期以後のころでしょう。
明治以降の佐渡の能
明治2年、能舞・芝居の類の稽古停止の通達が出され、相川地区の春日社・大山祇神社の神事能も取りやめになりました。そして遠藤能太夫は、明治11年、廃業して上京したので、本間能太夫との対立は解消されました。明治13年には、佐和田地区中原の中原神社(若一王子神社の改称)では、本間能太夫を招いて3日間の勧進能が行われ、次第に復活の様相を呈してきました。
明治16年、本間能太夫の弟子であった真野地区西三川の金子柳太郎が自ら免許を出しました。金子は天保7(1836)年生まれ、安政元(1854)年、江戸に出て日吉寿六の門に入り、文久2(1862)年帰国して、本間能太夫のもとで舞台をつとめましたが、明治8年独立。11年、石川県金沢市に行って、波吉宮門に学びました。のち加賀宝生宗家生嘉内に入門、15年、47歳で免許皆伝となり、翌年帰島して佐渡の加賀宝生初代太夫となりました。そのため、本間能太夫の潟上派と対立し、西三川派と称されました。
両派の接触地帯となった真野地区竹田の大膳神社では、潟上の本間能太夫の意見を聞き「能組」(能の出演順番)を決定しますが、竹田の重立衆の潟上派に対して、新興の勢力は対抗意識から西三川派の指導を受けて、能組の決定まで争いが絶えませんでした。
明治39年、佐渡を歩いた歌人・長塚節は、たまたま漁村の能を見て、その盛況ぶりに驚いています。また、大正13年来島した文藝評論家・大町桂月は、「鶯や十戸の村の能舞台」と詠んで、小さな村の神社にも能舞台があるさまを表現しています。
佐渡の能舞台は、明治時代の終わりころから大正時代にかけての盛時に約90あり、現在でも30あまりもあり、ほとんどが神社の境内に建てられています。江戸時代の封建体制が崩れ、新しい社会の荒波のなかで、莫大な経費をかけてでも、村の団結を守るために、村の能舞台とそこでお能を舞うことは必要だったのです。