芸能さど DEEP ARCHIVE

片野尾歌舞伎かたのおかぶき

開催日

4月15日に近い日曜(隔年/2018年)

開催地

片野尾集落

→アクセス

片野尾歌舞伎歌舞伎の始祖といわれる出雲阿国が、佐渡を訪ねて興行したとか、慶長13年(1608年)、佐渡島正吉という太夫のいる京都女歌舞伎一座が京都で大はやりであったと伝えられています。
金銀山の町として賑わった相川町では、天和元年(1681年)、元文2年(1737年)には、歌舞伎芝居が興行を禁じられています。
そこで佐渡へ来た歌舞伎一座は、相川だけでなく、他の村でも興行することにしました。奉行所から圧迫を受けた時代もありましたが、盛んな時代もあって、佐渡の村々に芝居の役者が生まれる素地を作ったのです。

片野尾歌舞伎北前船の寄港地として賑わっていた小木港の金刀平座には、一揃の衣装があって、旅回りの一座が、小木に巡りつけば一息つけるといわれていました。
明治23年ころ、浅田屋を名乗る浅尾森之介という二枚目役者が、事情があって諸国を放浪中、小木に滞留しました。彼は大阪の道頓堀の小屋に出ていた与六という役者の弟で、立役の本間トラをはじめ、多くの門人を育て、小木歌舞伎の隆盛をもたらしました。浅尾森之介の門人たちが公演する時は、衣装は各自持ちで、上方へ注文し、公演のたびに衣装が増えました。ここには、小木港の繁栄があったのです。浅尾森之介は、明治33年、小木で没しました。

片野尾歌舞伎そのころ、小木港の雰囲気の影響を受けた赤泊村徳和に市川盛之助がおり、また旅回りの役者で佐渡に根をおろした市川恵美之助もいました。
恵美之助の弟子には、真野町竹田の徳兵衛や新穂村田野沢の市川絞三郎がいました。
田野沢の市川紋三郎は、本名山田紋平、家の名前が紋四郞で紋四郞芝居ともいわれました。長男山田豊を女形として市川小田野を名乗らせ、妻の実家勘左右衛門・両津市長江の武助・新穂村馬場の影山春治・新穂村島の野崎五作・新穂村田之沢の本間茂左衛門らが座員でした。長江の武助は中村省三郎という東京生まれの役者。影山春治は旅先で役者になり、本間茂左衛門は紋三郎に子役から仕込まれました。
新穂村田野沢には、別に岩間又兵衛一座でありました。山下与助・山本弥九郎らが座員です。

明治三十年ころ、歌舞伎は両津市水津や野浦集落で隆盛でありましたが、そのころ真野町竹田の徳兵衛を、祭りの一ヶ月くらいまえから頼んで習ったのが両津市片野尾です。
その時の芝居を習った若い衆には、小田忠吉・三国龍吉・金子柳太郎・吉田亀吉・清田九郎・山田寿吉・金子兼・宇治重太郎・宇治繁太郎・藪田亀治郎などがいて、出し物には義経千本桜・仮名手本忠臣蔵・奥州安達原・一谷嫩軍記・伽羅先代萩などがあって、七、八年は続きましたが、日露戦争で中断しました。
大正15年、歌舞伎同好会を結成し、田野沢の市川紋三郎から習い、4月19日の片野尾神社の祭礼に奉納。渡辺弥市・山口広吉、役者に宇治藤二・山口七太郎などがいました。

その翌年からは紋三郎に習わなくともやれるようになったそうです。中には宇治シマ・宇治イトなどの女性も出演しました。
戦争で一時、中断しましたが昭和22年4月21日の風島神社の祭礼に復活、その後、役者不足で昭和39年以降中断。昭和52年に公民館に歌舞伎部ができたことで復活し、保存会を結成し片野尾小学校(現在閉校)の児童に教えたりもしながら底辺の拡大を行ってきました。現在は2年に一度の公演を続けています。

みどころ

舞台セットから役者の衣装、かつらまで、地元の人たちの手作り。身近な人が演じる田舎芝居。

アクセス

住所

〒952-3542 新潟県佐渡市片野尾

地図情報をLINEに送る

バス

東海岸線 「片野尾東」下車
東海岸線:時刻表

両津港から車で約30分

さど芸能一覧

関連商品販売中関連商品販売中

TOP