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佐渡芸能の歴史

佐渡の芸能は日本の縮図解説:山本修巳  
(郷土史家、佐渡市文化財保護審議会会長、「佐渡郷土文化」主宰)

流人の影響


佐渡は奈良時代、遠国の配所地と定められ、中世末までに、記録に残る流人として七十人を数えます。
その中には、万葉歌人穂積朝臣老、安宿王、第八十四代順徳天皇、日蓮、京極為兼、日野中納言資朝、世阿弥などもいます。
佐渡出身の文学者青野秀吉は、こうした人々が流謫生活を送った佐渡の国仲地方には貴族文化が残ると書いています。

佐渡の人々との交流は、日蓮の書簡などでもわかりますが、島内においては自由な生活であったので、流人の島人への影響は大きかったと思われます。

鉱山により江戸との文化交流が深まる


江戸時代、佐渡では相川鉱山で金銀銅が産出されたために天領となり、幕府直接統治となったことが文化の特徴を形成する大きな要因となりました。奉行や用人の交替に伴う往来はもとより、金銀銅などの輸送に伴う、佐渡の地役人の江戸との往還などで、文化の交流が深まりました。

たとえば、相川の地役人石井夏海は、江戸の滝沢馬琴との交流が深く、『南総里見八犬伝』には、夏海の歌が載り、『燕石雑志』には夏海の佐渡貉の情報が載っています。
夏海の子文海が描いた『相川十二ヶ月』には、春駒や人形芝居、盆踊りの絵があります。奴凧などもあって、江戸の情緒を感じさせます。

日本海航路の寄港地として繁栄


また、日本海航路の寄港地としての佐渡は、特に寛文11年(1671)河村瑞賢が、小木港を改修、整備してから発展しました。小木港は外の澗の船を安全に掘割の運河に通して、内の澗に引くことができ、台風の時期や風待ちに、長く逗留する船もありました。

筆者の家には江戸中期に廻船を営んでいた時の資料『佐渡山本半右衛門史料集』があり、その中の「品物売立覚書」や「買入帳」には、塩、砂糖、煙草、綿、などの品名が多く記されています。

日本海航路の繁栄が、日本の商品経済を全国規模にし、航路を持つ佐渡は日本海の孤島でありながら僻地ではなかったのです。北前船、西廻り航路などが、北海道から奥羽根、北陸、山陰の角地から下関を廻り、瀬戸内海を経て大阪まで、日本の大動脈として賑わいました。

佐渡小木港は、その中間に位置します。小木港以外にも、四方が海の佐渡では、赤泊、相川、沢根なども、さらに奥羽地方や新潟から近い東海岸の夷港(現在の両津港)、水津、片野尾、松ヶ崎にも着船の記録があります。

こうして外から入って島に定着した文化は、島から出ていかないので積み重なって残ってきたのです。
芸能も例外ではありません。


全国の芸能の分野をほとんど網羅


島から出ていかなかった芸能は、全国の芸能のほとんどの分野を網羅しているといえます。

1 神楽
2 田遊び神事
3 大神楽(つぶろさし)
4 花笠踊り
5 獅子舞
(一)鬼太鼓
(二)小獅子舞
6 盆踊り
7 人形芝居
8 歌舞伎芝居
9 能楽
10 狂言
11 春駒
12 ちょぼくり
13 やわらぎ
14 大獅子

神楽、狂言、能楽


神楽、狂言、とりわけ能楽は、現在も集落の神社の能舞台で行われているので、取り上げてみましょう。

神楽は、神職とその妻や娘によって伝承されていて、他社の祭日にも招かれて舞います。神職の妻や娘が舞うのは巫女神楽で、「岩戸神楽」、「神明神楽」等の信仰的なものであり、「詠詞」は熱田神宮の神楽の詠詞と同じであるが、由縁はわかりません。神職の舞う男の舞「大黒の舞」や「恵比須の舞」は、神職の創作です。この芸能は、神職関係者以外には広がらないので舞い手は少ないのです。

佐渡の能楽の始まりは、永享6年(1431)、世阿弥(観世元清)が佐渡に流され、在島中に『金島書』を残していますが、島内に広く浸透していくのは、慶長9年(1604)初代佐渡代官の大久保長安が能楽師を連れて渡島したことにあると言わています。

江戸城の将軍をはじめ武士は、たしなみとして能楽と連歌に重きをおき、江戸から赴任する代々の佐渡奉行とその用人たちは、佐渡においても相川の春日神社や大山祗神社の祭礼には能を奉納しました。
その後、旧両津市吾潟の左太夫は庶民の出ながら、大久保長安がつれてきた能楽師常太夫・杢太夫の継承者の弟子として成長し、左太夫の息子清房も江戸の宝生流家元に習い、帰島して広く村々の有産者階級に教えるようになりました。

一方、観世流は、旧佐和田町矢馳の遠藤九左衛門が奈良の脇師福王茂十郎に学び、佐渡に帰って能を広めたのが由縁となっています。正徳3年(1713)佐渡奉行神保五左衛門は、脇師の名目を与え、御払い米を給して地役人約200人に指導させました。

こうして、江戸時代、宝生流の本間家と観世流の遠藤家が天領佐渡の能楽を支えたのです。江戸幕府瓦解のあと、観世流は衰退しましたが、宝生流はさらに広い層にも浸透しました。

明治39年(1906)来島した歌人長塚節は、紀行文『佐渡が島』中で、赤泊で能楽を見たが見物人は百姓や漁師や子ども、役者は桶屋や石屋、宿屋の主人であったと驚いています。その頃は、ほとんどの村の神社に能舞台があって、約200を数えたといいます。現在は35残っており、その能舞台で薪能なども演じられています。

狂言は、江戸時代吾潟の葉梨源内、沢根の土屋辰次郎が、江戸で鷺流狂言を修業し、文政年間から天保年間(1818~44)にかけて活躍しました。その後、幕末最後の佐渡奉行鈴木重嶺の用人として来島した三河静観は、すでに鷺権之丞から学んでいて、その静観が明治維新後も佐渡郡役所に勤め、広めることになったのです。
現在、旧真野町に伝えられています。

そのほかの無形文化財


佐渡の文化財に指定されている芸能を概観すると、国指定の「重要無形文化財」として佐渡の人形芝居(文弥人形・説教人形・のろま人形)があります。説教人形は、江戸時代、享保(1716~36)の頃伝来し、文弥人形は、盲人の座語りであった文弥節が、岡本文弥の語りを伝えていて、明治期になってこの文弥節で人形を遣ったのが始まりです。

赤泊地区の五所神社の御田植神事、畑野地区の白山神社の田植神事が、国の「記録作成などを残す無形民俗文化財の選択」と新潟県の「無形民俗文化財」に指定されています。新潟県では佐渡以外にはなく、北陸地方の影響かと考えられます。

修験者が運び、島の中で芸を競い合って継承されてきた芸能の多様性


佐渡島内は、かつて修験者が多く、山中に住む木樵や里人と交流しました。このような人々によって芸能は村々に伝播したのではないでしょうか。
また、島国ゆえか、隣村と祭りなどで芸を張りあう意識が強かったようで、芸能が移入されたあとも、それぞれを大切に守りながら長く継承してきたのでしょう。

まさに、この佐渡の芸能の多様性と伝統性は、「日本の芸能の縮図」といえます。

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